「どうか…」




「どうか…お元気で」

こんな言葉ひとつが、細く鋭い針の先となって胸を貫く


思いもかけず訪れた痛みが去ると

今度は

胸の奥の深い深いところで

得体の知れない不安が

きゅんと小さく音を立てる


小さな葉書に几帳面に書かれた

短い文章の結びのことば

なぜ「どうか」なのだろう?

なぜ「では」と書かなかったのだろう?


もうこの人とは会えないのだろうか?

これは、このことばは

わたしにかける最後のひとこと?


あなたの大切なひとの命は

今戦っていますか?

傷つき、疲れて、虚ろな眼をあなたに向けていますか?


今日一日の生をまっとうできたこと

ただそれだけを感謝する日々だと

あなたは気丈に書いています


あなたとあなたの大切なひとと

出会えた幸せを

大切に宝箱に入れて守っていくと決めたところでした


つかのまの出会い

通りすがりの隣人

ただ…それだけのわたしに

なにかできることはないかと一生懸命考えています


赤い風を立てる裏日本の砂浜に

緊張した顔で立つ素朴なこどもたちのモノクロ写真

化粧っけもなく

さっぱりとした朝顔色の着物をまとい

はにかむ新妻のぎこちない表情

決して特別ではなく、どこにでもある風景を

独自のレンズで静かに切り取る

そんな写真家植田が、溢れる愛情を注いでこの世に残した

地味な写真集をお見舞いの品に選んだのは

何故だろう?


病で動けぬとき

自由に動き回るのは、唯一、むかし過ごした時間の中

そのなかに、写真家の見たものと似た風景があったなら

心だけは少し浮ついて、軽やかに躍りだす

そんな瞬間がつかのまでも訪れて欲しいと

届かぬ想いをこめて病室に届けました


薄墨色のノスタルジーの中に浮かぶ儚い夢に耽るより

現実の強い光を求めていますか?

常套句のようだけれど戦うことは必要です

戦うことをやめたとき、非情な神は

すぐさま肉体を滅ぼしてしまうかも知れないから


でも

どうか…心を滅ぼすほど戦わないでください

どうか…その皮肉な憎まれ口を忘れるほど走らないでください

どうか…また戻ってきてください

どうか…どうか

元気な笑顔をまた見せてください


わたしの放った

「どうか」は、あなたの大切なひとの心に

熱い血を呼び起こしますように

どうか…そうでありますように


2009.7.20 記す)

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