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忘れえぬひと…たち


幼い頃の出会い
悩める10代に出会ったひと
楽しかった学生時代
一緒に悩んだり遊んだりの仕事仲間
姫路で暮らす中で…
忙しくも輝いていた日々の中で…
出会い継続中…

あこがれのひと
つらいとき元気をいっぱいくれたひと
ほっとするあたたかなひと
大事なことを教えてくれたひと
もう2度と出会えないひと

いろんな忘れえぬひとが沢山




幼い頃の出会



えっちゃん

家の土間から屋根を突き抜けて大きな木が空に伸びていた…
そんな不思議な家に住んでいたともだち
小さな橋を渡って100mぐらい先に私の家…
「家に着くまでそこで見ててよ!」と
私はランドセルを揺らせながら家まで全力で走っていった。
振り返るといつも彼女はずっと立って私を見ていてくれた…

中学校の頃引っ越していった…きんぎょで有名な町だと聞いた。



初恋のひと I君

幼稚園の頃好きな男の子がいた…I君だ
目が大きくて色の白い男の子
その子は絵の塾に通っていた。
私も…と母にせがんで同じ教室に入った。

顔を肌色、髪の毛を黒く塗った女の子の絵を描いたら…
先生が「髪の毛を緑や黄色やいろんな色で描きなさい」と言った。
小さいながら納得できずにすぐその教室を辞めた。
(その時すでに私の芸術的感覚が無いことが判明したのだった)

小学校に入って同じクラス…

今度はやたら喧嘩を吹っかけて、お互い「あだ名」を言い合いしてはやし立てていた。
なぜか喧嘩するのが嬉しかった…

彼は今どうしているだろう?


私を誤解したままの…O君

私の記憶の中の男の子が「O君」だったと知るのは…
ずっと後…大人になってからのことだった

小学校3年か4年のころだったと思う
今はどうなのか知らないけれど、
当時は給食はいくら嫌いなものがあっても、
残らず食べるように指導されていた

その男の子は給食が終わって、掃除が始まっても、
まだ青い顔で給食を口に詰め込んでいた
やっと食べ終わって、廊下に出たところで…
その男の子は食べたものを全て吐いてしまった
廊下には嘔吐物が流れ、彼は一生懸命それを拭き取っていた…
そして…私はそれを手伝った…周りは見ているだけだった

「なぜ手伝ったのか?」
小さいながら、その時、私の心に偽善が生まれたのだ!
皆の視線を背中に感じながら、自分自身を誇りに思いながらの作業
その時の気持ちははっきり覚えている
心から無償の手を差し出した訳ではなかった…

だいぶ後になって同窓会で出会ったO君
その時のことをずっと心に刻んできた…と私に言った
(大柄な彼は、私の記憶の中の男の子と重ならなかったが…)

彼は私のことを誤解したまま…その後亡くなったと聞いた



守ってくれてありがと!なおこちゃん

運動能力抜群、お転婆で目立ってたなおちゃん!
啖呵が利いてたね…一言で男の子も黙ったもの

そんな…なおちゃんはいつも私を守ってくれた
なぜだろう?なぜ私をいつも気にしてくれたんだろう?
今からは想像できないが、温和しくて、でも一風変わった私だったのに…
なんかあると、いつもなおちゃんのとこに助けを求めて、
なおちゃんの背中の後ろに隠れてたね

私たちとは離れて、私立の中学に行ってしまったなおちゃん
なんだかおすましさんになって、いつのまにかその距離が遠くなってしまった…





悩める10代に出会ったひと


あなたのこと嫌い!と言ったSさん

中学時代の私は自分に全く自信がなかった
自己主張が苦手で、授業中手も挙げられなかった

先生に当てられるとがたがた震え恥ずかしかったことをよく覚えている
あの頃の私はどうしてあんなだったのだろう?

でも、勉強の面では、不思議なほど成績が上がったのがこの中学時代だ
小学校の頃は少しも目立たなかったのに、自分でも戸惑うほど注目された時代だった

いわば私は温和しくて、そつのない優等生だったのだ
誰かに意地悪するでなく、明るくはしゃぐでなく、静かに自分のペースを守っていた
だから…好かれてはいなくても誰にも嫌われてはいないと信じていた


そんな私に、唯一面と向かって「嫌い!」と言ったSさん
私はSさんに何も悪いこともした覚えがないので、その言葉に愕然とした…
何故?私のどこがいけないの?って…
彼女は言った…「あなたのそつのない利口ぶっているところに腹が立つ」


その時、私は初めて知ったのだ

何もしなくても、人によっては「私の存在」そのものを拒否されることがあるのだと…
誰にも等しく好かれることなど所詮無理なことなのだと…

それから私は少し気が楽になった

無理していないつもりだったが、本当は私は「いい子」を演じていたのだ
あるがままでいこう…って思ったのはこの時からだ

それから5年ほど経った短大時代、バイトでウエイトレスをしている店に
Sさんは客として現れた。
彼女は、私を見つけ、驚いて…そしてはにかんだ笑顔を向けてくれた
何故かはわからないが、
その時、彼女は私を以前より少し近い存在に感じてくれたような気がしている

私は彼女に感謝している…大切なことを教えてくれたからだ
そして…本当はそれほど嫌われてはいなかったと思えてならない





楽しかった学生時代


忘れられない山中の成人式…ワンゲル先輩達

ワンダーフォーゲル部で卒業間近な先輩と近辺の山を縦走した
1月半ば2泊3日で近郊の山に行ったときのことだ。

メンバーは私を含む1年2名、2年2名のたった4人…
ルートを歩く時はサブリーダーが先頭、リーダーが最尾と決まっているが
その時私は初めてのサブリーダーを務めた

地図とコンパスを頼りに歩くのだが、その時の私はミスを連続…
道を何度も間違え、谷まで降りてまた戻るということを繰り返した。

おかげで2泊目の宿泊場所まで到達できず、途中の山道でテントを張る羽目になったのだ

その夜は非常に寒い日で、テントの外に置いたポリタンはすぐ凍ってしまったほどだった
寒いので皆やたらと着こんで、誰かに見られたら恥ずかしいくらいの格好をした
お互いに笑ってしまうほどの「おやじ姿」だ
丁度その日は成人式…友人は晴れ着で着飾っているだろうに
先輩達はニッカポッカ姿で何も文句を言わず楽しそうにしていた

いいなあ…素敵だな…こんな成人式の先輩たち!

自分の愚かさと先輩の暖かさが胸に浸みた夜は未だに忘れられない


えっさっさの愉快な仲間達

英文科だから…やっぱりESSよね…と安易な気持ちで入部したESS
ESSを「えっさっさ」なんて呼んでたのは私だけ?
安易な気持ちは私だけだったのだろうか?


ワンダーフォーゲルとの2足のわらじ
滅多に部室にも行けず(?行かず)、英語の勉強をしたことはあまり覚えていない
ただ学園祭の英語劇だけは逃れることはできない。
学祭が近づくと毎日遅くまで練習や準備におおわらわ
家が近いのに、私はそれを理由に仲間の下宿に泊まり込んだ

楽しかった!皆結構真剣だったよね

衣装作りを一手に引き受けたkuraちゃん…
もちろん全部手作り…なかなかの出来映えだった

いつでも明るく頑張りやのあなたのパワーには負けます!

のっぽで、いつものんびりほんわかkunikoちゃん…
風邪をひいたあなたのためにみんなで下宿に押しかけたね
その時作った卵酒の不味さが未だに忘れられないよ!


図々しい私がちょくちょく下宿に押しかけても嫌な顔せず
面倒みてくれたhicyako…またあんな夜を過ごしたいなあ


美人なのに啖呵が利いて頼もしい姉御風ののぶちゃん
ダンスが好きだったけど、今は祭りも?

いつもふわふわしてて夢見がちな可愛いsatoeちゃん…
グアムの夕陽を背に真っ黒なシルエットの写真が印象的だったよ

海の向こうで運命の人と出会ったあなたはなんてロマンチック!

気むずかしいんだかなんだか、いろいろ考えてばかりのnegiちゃん
一生懸命さがなんだか切なくなった時もあったよ

違う2人の気がするのに、よく一緒に遊んだね
………
全国からこんな小さい街に集まった仲間達…
北海道、東北、北陸、山陽、山陰、四国、九州から…どうしてこんなちっぽけの短大へ?

今や私たちが通ったその短大は存在しない…4年制に吸収されたのだ
思い出の学舎のあった場所には、もう別の短大学舎が建っている…


でも、あの子供でもない大人でもないあの2年間…本当に貴重な時間だった


Bon appetit!先生

フランス語会話の先生
確かランドリュー先生と言った
優しい感じの大きな体(特にお腹が…)の先生
宣教師の方だったように思う
その先生は講義が終わると必ずこう言った
「ボナペティ!」…???
講義の後は決まってお昼の時間だったからか…?

英語に直すと「Good Appitite」イコール「よい食欲」
その先生はとっても好きだったが、フランス語が
どうも私に合っていなくて…
なんと言ってもあの…のどの奥から絞り出すような発音が苦手!
…と言うわけで2年目はパスしてしまった


先生との一番の思い出
いつも遅刻すれすれで、大学に向かう道をあせって走っていた私

そんな私を見かけた先生が見かねて私に声をかけ、
車に乗せてくれ学校まで送ってくれた
恥ずかしさと申し訳なさ(不真面目な学生だったから)で
一杯になったことを思い出す


でもこの「ボナペティ」は頭に残っている貴重なフランス語だ


 Deer daddy long legs!

所属していたESSは近くの4年制大学のESSと交流していた

その工学部の学生は、今のおしゃれな学生と違い
汚れた白衣と下駄履きで平気で歩いていた

とはいえ私たちもおしゃれっけ無しの地味な女子大生だったっけ
交流の中で好きなセクションでグループを作りそれぞれ活動していた時期があった
お気楽な私は、English Song というセクションに所属
好きな英語の歌詞を分析(?)勝手に解釈したりしていた
まあお遊びだったなあ…と思う

そのセクションには2人の男子学生
初めて会った時「僕は沖縄出身」と嘘をついた細身のすーっとしたイメージのMさん
もうひとりは若いのに落ち着いたイメージの院生…これもまたMさん

その頃レシテーションコンテストの題材に「足ながおじさん」を選んでいて
(レシテーションコンテストとは英語の暗唱コンテストのこと)
そのため、二人を勝手に「daddy long legs」と呼んでいた
若いのにおじさんはひどいよ!って愚痴っていたっけ…
お遊びながらも結構真面目に取り組んでいたような気もする
英語の勉強になったかどうかは???だったが…

突然コーヒーが飲みたいと下宿に押しかけても嫌な顔もせず
ちゃんとミルで豆を挽いて、とってもいい香りのコーヒーをいれてくれたMさん
きままな私に本当は辟易していたかも知れないが
難しい本を貸してもらったり…といい勉強もさせてもらった

優秀な彼らは今きっとそれぞれの場所で活躍しているに違いない
そして今や正真正銘のdaddyになっていることだろう





一緒に悩んだり遊んだり…の仕事仲間

思い出の京都珍道中


短大を出てすぐ勤めた会社は旅行会社…
旅行が好きで、その好きなことを仕事にしたいと決めた仕事

でも夢と現実は大違い…夢が大きい程失望が大きかった
私に関して言えば、若さがその失望を乗り越える力を阻んだ気がする
その時の同期の女性は14人…皆本当に個性的だった
花も恥じらう若い女性なのに、いつしか自分たちを「おにゆり会」と呼ぶようになった

よーく遊んだ…いっぱいお酒も飲んだり、泣いたし、笑った

あるときそんな仲間の中の3人で京都へ行った

京都の街を歩き疲れて入った甘味処…
「あわぜんざい」と書いた張り紙が目につき「これこれ!」と勇んで注文
出てきたのは粟まんじゅうに餡がかかったもの…
「これはぜんざいじゃない!」と皆ショックを受けた…描いていたものとあまりに違ったからだ

鞍馬に行き、山を歩いて貴船へ…
…とそこに「ぼたん鍋」ののぼりのあがったお店が沢山
「ちょっと贅沢してみようか!」と小さな店に上がる
メニューのどこにも値段が書かれていなかったが、何の不安も感じなかった
たらふく食べてお勘定…驚いた…なんとすごい値段!
3人とも意気消沈し、言葉もなく黙ったまま、とぼとぼと電車の駅まで歩いた

子供みたいにはしゃいで笑っていたかと思えば、つらいことを言い合って大泣きした
本当に珍道中だったけれど、思い出深い旅だった
その時以来、この3人で旅行したことはない
また一緒に大騒ぎしたいけれどそれはかなわないだろう…
悲しいことだが、年月やいろんなことが重なって隔たりを生むこともある
でもあの時の2人の笑顔、泣き顔、失望した顔を忘れない
そして「あわぜんざい」と貴船の「ぼたん鍋」も…


ひょんなことで実現した企画ツアー

旅行会社に居たのはたった1年4ケ月
そんな短い期間の中で、幸運にも自分の企画がパッケージツアーとして採用された

きっと当時の観光課の上司のきまぐれだったに違いない…そうとしか考えられない
しかも内容はお堅いもの…全国に多くの木っ端仏を残した聖…円空の作った作品である木彫の仏を訪ねる旅だ
高校時代、図書館で円空の作った木彫りの仏と出会い、惹かれ、自分なりに調べたりしていたことがきっかけ
旅のコースを検討するために、岐阜在住の円空の研究家の方の自宅まで訪ねたりもした

本当に一生懸命勉強したし、いろいろな人と出会えた

結局ツアーに申し込んだ一般の方はたったの5名…これでは中止せざるを得ない
実現したのは、採算の合うぎりぎりの人数にするために、友人たちが参加を申し出てくれたからだ

コースを下見する予算も時間もなく、頭で描いたコースへの不安な出発…
案の定、途中寄るはずの場所がわからない…バスを降りて何度も道を聞く
宿舎に選んだ円空ゆかりの高山郊外のお寺へも…バスは山道を途中までしか進めず
夜道を歩いて宿坊まで向かってもらう羽目に…

お金を頂いている上、貴重な時間をさいて参加してくれている人たち
失敗続きでどう思っているだろう?と思って情けなくなる…
夕食は高山市内から取り寄せたお弁当だ…友人たちが皆配膳等手伝ってくれた
友人たちもお金を払ってきているのに…だ

2日目は高山散策…仕事ながら友人たちとたっぷり楽しむことができた…(やや心苦しかったが)
沢山の円空仏に出会うことの出来た充実した旅だった…いや仕事!だった

岐路のバスの中で、皆それぞれから感想を頂いた
友人からは参加して良かったと…嬉しい言葉
なんだかボランティアしにきたようなものだったのに…ね
嬉しいことに、一般のお客様からも「まさかここまでやってくれるとは思わなかった」という言葉
これまで専門の先生が講師を務めた旅をしてきて人たちだ
私のつたない勉強の成果を黙って聞いてくれた…数々の失敗に顔をしかめながら…だ

バスの運転手さんからは、こんな仕事初めてだよ…大変だったけれど楽しかったとの言葉
なんども道を変えさせて、多大な迷惑をかけたのに…

多くの友人たちに支えられて実現した旅だった
特に、企画段階から一緒にずっと陰ながら手伝ってくれた友人に感謝している
中にはもう違う世界に旅立った人もいる…
でも、みんなのことは絶対に忘れないから!




姫路で暮らす中で…

ぴかぴかの白い靴

姫路で暮らした8年間は、本当にいろんな人と出会いがあった
苦労知らずの私が親元を離れて味わった現実

でも、元々のほほんとした性格が幸いしてか、
さほど深刻にならず、のんびり暮らしてた

それは沢山のひとに助けられたから…
一生懸命生きているひとを知ったから…


中でも忘れられないひとがいる
こうちゃんのおかあさんだ

保育所の父母同士…しかも定時以外の長時間保育を頼んでいた仲間
こうちゃんのおかあさんはとっても働き者
ひとりで頑張ってこうちゃんを育てていた
気弱ですぐ泣くこうちゃんを守るかのように、いつも厳しい顔をしてたっけ


こうちゃんの保育所の上靴は、いつも本当にぴかぴかに洗われていた
「どうやったらあんなにピカピカになるんだろう?」
タワシの跡がいっぱいついて、その努力の様が見えていた
感動するくらいすごかった!
「毎回ゴシゴシとブラシで一生懸命洗うんでしょうね…すごいですね」

…と言うと、いつもの厳しい顔を崩して、照れ笑いを浮かべてた

姫路を去る少し前、おかあさんが会社の旅行に行く間
こうちゃんを家で預かることを申し出たことがあった


最初は遠慮していたが、結局応じてくれ、北陸へ一泊旅行にでかけていった
我が家では、こうちゃんが家が恋しくて、ひとりで家に帰ってしまい
慌てて探しまわったというハプニングもあったが…
おかあさんは…やっと、自分のためだけに時間を使うことができたのだ
こうちゃんを迎えにきたおかあさんは、本当に何度も何度もお礼を言って
帰っていった…とびきりの笑顔を、その時初めて見せてくれた気がする


しっかりもののおかあさんは、今はもう肩の力を抜いて生きているだろうか?
いつもお母さんの後ろに隠れて、めそめそしていたこうちゃんは、強い男になっているだろうか


たかが靴なのに…誰もあんなにぴかぴかにできないだろうと思う
お母さんは何を思って靴を洗っていたのだろう?


めばえのお母さん

子供が出来た時、迷わず働き続けることを決めていた
ずっと働く両親の姿を見ていたから、それが当然のことのように疑問にも思わなかった

先ずお世話になったのは、姫路城近くにある「めばえ共同保育所

働くお母さん達が始めた保育所…全ての費用が保育料でまかなわれるところ…現実には厳しいものがあった
汚い路地を入ってすぐ観音扉の戸を開けると、そこにめばえ保育所はあった

運動場は歩いてすぐのお城の公園…大きな乳母車に5、6人の0歳児を乗せてお散歩
狭くて暗くて最悪の環境だったけど、皆明るく、そして強かった

知り合いも居ない土地で心細い私は、そこの先生を随分頼りにしていたっけ
特に園長のM先生は、私にとって母親のようだった
「あなたは、ほんとうにのんびりかあさんねえ」っていつも言われてた

熱が出てやっとの思いで保育所に辿りついたことがあった
保育時間はとっくに過ぎていて、園長先生一人で待っていてくれた
先生は近くのほっかほっか弁当屋に行き、子供の分まで買ってきてくれ、目の前に差し出してくれた
体調が悪くどうしよう?と思いあぐねていた時だった…ひとりじゃない、子供には何を食べさせようか…と
涙が出てきた…母のような暖かさを感じたのだ
情けが身に沁みるとは、こういうことなのだなと初めて実感した時だった

決して利益にならない仕事だったと思う…市の補助もない無認可保育所故に…
働くお母さん、働く女性を助けるんだと言っていた

2人の子供は、生後1ケ月半から公立保育所に入れる1才以上になるまでここにお世話になった
そして、何故か2人とも園長先生やその家族にまでとっても可愛がって頂いた
迎えに行っても、先生にすがりついて帰ろうとしないこともあった程だった
それは、私にとってかなり寂しいことだったが…

でも、家から離れていたこと、保育料の負担、環境の問題はどうしようもないことだった
仕方のないことだが、働く母親のために病気でも預けられるため、子供はしょっちゅういろんな病気に感染していた
そのことで逆に私も随分助けられた…子供のことで休むのは職場で肩身の狭いことだったから
心を残しながらも、私達は規定の年齢に達するとすぐに、子供を家の近くの公立の保育所へ移すことにした
その後も時々相談に乗ってもらい、私にとって頼りになる姫路の母とも言えるひとだった


いつのまにか年賀状すらも出さなくなってしまったけれど
先生…今どうされていますか?


美しき誤解

姫路を去る少し前、長男は家の近くの公立保育所の最長組のゆり組を卒園した
当然4才の次男も、浜松の幼稚園に転園となる

もうあと少しで卒園式というある日
主人の職場で大きな花束を頂き、狭いアパートなのと、もうすぐ引っ越しということで
翌朝保育所へプレゼントすることにした

夕方子供を迎えに行くと、運動場の向こうにある事務室から走ってくる人…
手には大きな花束を持って、大きな体を揺すりながら、汗をかきかき
園長先生が走ってきた

「こんな大きな花束をありがとうございます!」と
何度も頭をさげた先生

あまりの喜びように、つい「もらいものなんです」という言葉を呑み込んでしまった
とっても後ろめたかったのを覚えている
この園長先生には随分私は反抗してきたからだ

働く親の気持ちをわかって欲しいという私に、「あなたは子供のことを見ていない」ときつく言われた
忙しいことを理由に園の行事も休みがち…どうにか参加してもすぐ職場に戻っていた
朝7:30からぎりぎり閉園の18:00まで子供を預けていた
子供は朝一番乗りで園に着き、閉園間際、ふたりぽつんと待っていた毎日だった
余裕が無くて、園長に「何故わかってくれないの!」と不満だった

でもしぶしぶ園の行事に参加し、子供と接する時間が増えるに従って
みるみる子供の表情が変わってきた

やはり私が間違っていたと理解できた
子供の心より、大変な自分のことばかり主張してきた私
だましてしまったようで心苦しい…おまけにじっくりお礼も言えなかった
未熟な母親の目を覚ましてくださったのに…
H先生 ありがとうございました…めぐみ保育所は最高の保育所でした!


懐かしの加集荘の人々

姫路で暮らしたアパートの名前は「加集荘」
姫路から電車で2つめの駅で降りたところにある
古い古い文化住宅で、すぐ近くを山陽電鉄が走っていた
電車が走ると話す声も聞こえず、アパートが揺れた
日中でも暗くて、毎晩天井からは(?)が走りまわる音が聞こえてた
隣家の話し声も筒抜け状態だった

世間知らずの私にはこんな場所での暮らしが新鮮だった
お米も醤油もそれまで常に家にあったから、買いにいかないと手に入らないことを初めて知った
スーパーで魚の切り身のサバの値段の安さ(2切れ100円!)に感激してしまった
こんなお嬢さん育ちの私を、アパートの住人達ははらはら見ていたようだ
ひそかに「駆け落ち夫婦かも?」と噂されていたとも…

失敗続きの私をみんなで助けてくれた
ひとりで幼い2人の子供をお風呂に入れられず、助けてくれたOさん
二人のこどもと病弱なご主人のために頑張って働いていた明るいおかあさんだ
一番いろいろと相談に乗ってもらったひとでもある

行商の仕事を2人でしていたY夫妻
ワゴン車にいっぱい荷物を積んでいつもどこかへ出かけていった
鍵が無くて家に入れず困っていた私と子供を、主人が帰るまで家にあげてくれ
あげくの果てに夕飯までごちそうしてくれた
あの時の栗入り筍ご飯のなんと美味しかったこと!

ちょっと口調が怖いけど、ほんとはやさしいTさん
ひとり暮らしのおしゃべり好きなおばあちゃんのNさん

元牧師だったおじいちゃんと奥さんの老夫婦…しっかりもののおじいちゃんは
あっという間に呆けてしまい、我が家にもずんずん入り込んできた
姫路に居た間に、私はこのふたりのあの世への旅立ちを見送ることになった

一度だけ遊びに来た父は「こんなアパートで…」と私を可哀想だと言った

でも私はちっともつらくなかったよ
みんなそれぞれ頑張って生きてたから…
いっぱい助けてもらって寂しさも感じなかったから…

愛すべき隣人達に囲まれていたから…


忙しくも輝いていた日々の中で…

(これからぼちぼちと…書き込んでいきます)



出会い継続中…

(これからぼちぼちと…書き込んでいきます)